アイデンティティは母国語と地域愛で育まれる

福島原発の事故があったから今「ディアスポラ」が出版された、というわかりやすい理由。平塚市図書館に所蔵されます。

10年前の初出時には、この事故の可能性には「絶対安全ですから」と木で鼻をくくったような対応しかなされなかったであろう。にも係らずその破滅的な影響の蓋然性を看破し、その後の日本国民の生き様を国外国内それぞれ描いてみせる。この先見性をもってさすがは慧眼の勝谷誠彦と賞賛すべきか、はたまた、ならなぜもっと激しく反対活動をしなかったか、とタラレバ批判をしてみたものか。

一昨日のNHKクローズアップ現代「町をどう存続させるか~岐路に立つ原発避難者たち~」は、現在は避難されている浪江町の方々の現況。地域コミュニティを維持したいとの熱意を持ち、しかし高い放射線量から今帰るのは許されず、コミュニティごと代替地に移転するアイデアを提起するも十分支持を得られず、といった状況について紹介されていた。やはり、住み慣れた地域というのは離れがたいものなのだなあと、本書後半の国内編とでも呼べる「水のゆくえ」と重なり合って見えるのだ。

対するに海外編と呼べる前半の作「ディアスポラ」。ディアスポラは要するに離散してしまった国民の状況、要するにイスラエルの建国前のユダヤ民族のことを指す。かつて日本沈没という一世を風靡した作品でも、国土を追われて各地に日本国民は散らばり、続編ではメガフロートを東南アジアの海域に浮かべて日本民族が再結集するプランが示されたと記憶する。こういう話で必ずといっていいほど話題になるのが、日本民族のアイデンティティとは、何ぞや、という素朴な疑問。日本語です、というのが玉虫色の回答だと思う。

社内公用語を英語に、というグローバル化の時期にあってこそ、日本語を大事にしたいという気持ちが確かなものとなる。英語ペラペラの中国人ビジネスマンは母国語を捨てているわけではない。英語がペラペラだけではだめで、語る価値のあるコンテンツがあってはじめてコミュニケーションツールとしての英語が生きる。そのコンテンツの独自性を形づくる一つの要素が母国語だと思う。

10年以上前のことだが、とある国際的なコンサルティング会社のプレゼンに参加した際のこと。米国本社から派遣されてきた講演者がなかなか練られたトークに続いて質問を受け付けたとき、真っ先に手を上げて出てきたのがぺらぺらの流暢な英語で「お前の英語はフランスなまりでようわからん」というようなべらべらの浅薄な挑発。講演者は「nobody is perfect」とか何とか小声で言ったのだが、怒りもせずに冷静に回答していたのが印象的だった。世界市場は戦場だよねえと驚いたのだが、はからずも、英語ぺらぺらで価値は何も決まらず、人品卑しさも減ずることなく、価値はコンテンツに宿る、ということを痛感させられた。

ガラパゴスだろうと、コンテンツに価値があれば問題は無い。ガラパゴスによって守られるものもある。で、コンテンツの価値の一部は地域性に帰する。とすれば、望郷の念というのはさらにわかるし、生命を危機あろうと戻りたいという気持ちもさらによくわかる。方言が母国語と呼ぶ性質のものかはわからないが、コンテンツは地域性と方言を含む母国語によって、外敵から守られ、アイデンティティを醸成される。

日本に住めなくなるというシナリオで、現在、もっとも不安をあおるのは、事故ではなく、領土的野心を抱いた隣国の存在という方もおられよう。昨日は日本沿岸を軍用機で一周したという国もあった。日本国民にとっての近未来のディアスポラをテーマとする作品としては、そちらのアプローチが臨場感をもって迎えられるかもしれない。その危機が聊かでも現実のものとならぬよう祈るばかりであるが。