読んだと口にしにくい

ああ、その作品読んだよ、こう言った瞬間に誤解を招くことがある。

だから、図書館で本を借りた履歴は流出してもらうとちょっと困る個人情報のひとつだ。それがアダルト系というなら、例えば平塚市図書館の勇気に感銘しているのだが現在所蔵される「(これ)」のような著作であれば、まあ、みっともない、大人気ない、そういう非難の目を向けられるかもしれない。だが、これだけならまだいいだろう。
 
これがあるいは良識を問われたり趣味の悪さを疑われたりするものだと、かなり困る。あと、宗教信条思想主義主張の類。だから、読んでも黙っとくのがいい。人に訊かれたら、え、それ、何の本ですか? ってシラを切り通すのが大人の対応ですわな。
 
とはいえ、不用意に手にしてしまうケースもあるわけで、それを、ああ、それ、結構危ない本ですよ、って声をかけてさしあげるような余計なお世話も、へたれ書評がそれなりに人様の役に立つ稀有な機会となるのです。
 
というわけで、まず読んだとカミングアウトする最初の著作は、新堂冬樹「悪虐」。これはひどい。読んでて気分が悪くなった。卑怯、残酷、バイオレンス、猥褻。1/4ぐらいでめげてそこから4倍速で斜めに読んで結末だけ通常再生モード、ということに。新堂冬樹『黒』系のなかでもブラックさが際立ちます。
 
そして二冊目。このタイミングでなければ樋口毅宏最新作の風変りな作風も面白いと思っただけだろう。クールなジェノサイド系とでも表現できるかもしれない。虚構だ、という安心感があるから。が、今ニュークリアな話はリアルすぎて余計な誤解の大群を引き寄せて来るので、口にするのも憚られる。著者さんも出版社さんも無邪気なことです。前作「民宿雪国」も結構スプラッターなところはあったが、寒村の鄙びた雰囲気が醸し出す侘びて寂びて枯れたモノトーンの山水画のイメージが美しい。対して、本作は亜米利加のIQ集積地域から穀倉地帯へ、嫌米大陸横断の旅の末に、、、。
 
ひとえに、出版のタイミングが惜しまれる。
 
二冊目の作品は現在までのところ生憎と平塚市図書館には所蔵されないが、所蔵しましょうと稟議を通すのも蛮勇を要します。私なら、周辺市域の図書館の出方をうかがうでしょう。危ない橋はまず他の人に渡ってもらって安全確認してから、これ近隣諸国の格言でしたっけ。そして、所蔵しない、というのも立派な見識といえましょう。時節柄。くわばらくわばら。

人情話がウケるのは人情喪失と裏表

シンデレラコンプレックスというのは単に白馬に乗った王子様が自分を迎えに来てくれるのを待つ心理のことだと思っていたのだが、今あらためて調べてみると、現在は少々複雑になっているようで、独立と依存の二面性をもつ時期があるという。

シンデレラストーリーも古典的でナイーブな構図のものより、キャリアと恋のアンビバレンツという図式の方が、ウケる、ということは当事者ならぬオサーンにも容易に想像はつく。

人気シリーズ「みをつくし料理帖」は最新作「心星ひとつ」でそうしたアンビバレンツなシンデレラストーリーに大きく舵を切った。なんて評論家のような上から目線で的を射てんだかどうだかわからんような感想をオイラが言ったところで面白くもなんともないのだが、そもそも女性をターゲットに女性が好むであろうスタイルで書かれた(だよね)作品を、そのターゲットから思いっきり外れたオサーンがオモロイなタカマルよ~っ読んでんだから、何やら想定外の歪んだ読み方がなされていると考えないほうが不思議でしょうな。

いや、少なくとも私の場合、料理物として楽しんでいるにすぎない。食べる物が人を形作り、健やかにもし、癒し、幸福にする。料理と食材の話をオマケとしてでなく正面からがっぷり取り組んでいるところが大好きなのである。

さて、複雑系シンデレラ譚としては、この澪つくしと、NHK土曜時代劇「咲くやこの花」の百人一首名人と父のあだ討ち本懐の浪人の恋バナとが、私の脳内で勝手にオーバーラップしている。武家として復権したものの家督を弟に譲り自由の身となって江戸に戻ってきた深堂由良の姿が、澪つくしのヒロイン澪の想い人小松原こと御膳奉行小野寺数馬に重なるのだ。身分違いの壁を乗り越えヒロインの夢をかなえる男としてである。

御膳奉行という職が実在したとは知らなかった、ですが。

そしてみをつくしの教訓。二択が向こうからやってきたら、とりあえずスルーして、他の選択肢を自分でこさえること。恋バナも、お武家と医者の対決と見せかけて、実は今行方不明のあの人に、という大団円を勝手に予想させていただきました。

ちなみに、高田郁「みをつくし料理帖」(角川春樹事務所時代小説文庫)最新刊まで6巻すべてが平塚市図書館に所蔵されます。

  1. 八朔の雪 (2009年)
  2. 花散らしの雨 (2009年)
  3. 想い雲 (2010年)
  4. 今朝の春 (2010年)
  5. 小夜しぐれ (2011年)
  6. 心星ひとつ (2011年)

待ってましたインサイドストーリー

平塚市図書館にもやっと「アキバの帝王」が入着した。

人気作家、新堂冬樹さん(以下敬称略)の最新作である以上に、今をときめく秋葉原、Akibaのアンダーグラウンド、オタクの文化を伝えてくれる、ちょっとしたドキュメンタリーのような読み方もできる作品である。

新堂さん自身も芸能事務所を経営しており、そのホームページで所属タレントを見たところ、女性アイドルを中心とする事務所のようだから、立派なインサイダーだ。本書を読む限り、アイドル事務所稼業は好きな人には堪らない魅力があるようだ。大人買い、という言葉が本来象徴するように、子供の時期に憧れ欲しがったものを、経済力がついた段階で量的にも質的にも我が物としたい、そういう衝動。

本作のモデルは国民的アイドルAKB48の経営チームと秋元康氏であることは言うまでも無い。秋元康氏の行動を見て「大きなお友達」とか「Top of TO(Top Ota)」(オタクのボス)であるかのように感じる人もなかにはいるらしいことがどこだか失念してしまったが何かの記事に書かれていたように記憶する。

ところで、理系の人達は言ってみればみなオタクである。例えば技術者を技術オタクと上から目線で揶揄する御仁は、技術者になりそこねた自称管理職やら、枯れてしまって技術者を卒業した人と思って間違いない。オタクというのは職業や技術に真摯な人の総称であって決して蔑称ではない。が、その方向が実生活と乖離して社会生活を破綻させるようになったり、治安に脅威を与えたりする状態になると、マニアックという言葉同様のややネガティブなニュアンスを帯びることになる。これは例えば、ハッカーという言葉に本来ダークな意味は含まれないのだが、クラッカーと呼ばれる反社会的な存在が知られると、コンピュータと通信に精通した人はみなその予備軍であるかのような誤解を生むことになった、その経緯に通ずるところがある。人的風評被害と言っていい。

さて、アイドルのオタクの話であった。件のAKB48のライブに行くと、MIXと呼ばれるディープでコアなファン独特の掛け声に一般層のお客さんやライトと呼ばれる普通のファンは度肝を抜かれるようだ。その生態と言ってはいささか失礼に過ぎるが、日頃どのような活動を行っているのか、本書でその一部を窺い知る事ができたのは嬉しかった。

AKB48のファン層は今や幼児からシニアまで広がり、他国には見られない独特の文化を形作ることになったのだから、これをモデルにした創作ももっと出てきていてしかる。にかかわらず、私の知る限り、ストライクゾーンど真ん中の小説というのは、本作が初めてではないか。その背後にあるとも噂もされるダークな一面を恐れて、ということもあるかもしれないが、インサイドストーリーは本書でもうお腹いっぱいとはなっていない。まだまだ飢餓感があると感じるのであるが、どうだろう。

10年目の安定が衰退の始まりとなりませぬよう

右肩下がりがデフォルトのニッポン。

平塚とて例外ではございますまい。景気の悪い話が枕で恐縮です。

飛躍を狙って野心的な手を続々と繰り出してもせいぜい微増でともすりゃ横ばいになる御時勢。はなから安定志向なんて腰の引けたことを言ってるようじゃ、よくてずるずる、悪くすると垂直急降下で阿鼻叫喚の近未来が待っている。

ハリーポッターにしてもスターウォーズにしても、あれだけ長く続く話も、それぞれの巻で少しずつ進化、というかメインのストーリーが進展するから読者も飽きずにくっついてゆけるのだ。第5巻と第6巻の順序を間違えて読んでも気がつきませんでした、というような話ばかりでは、マンネリという著者さんにとっても読者にとっても不幸な状況を招く可能性はある。

いや、偉大なマンネリという例外も無いわけではない。永井康夫先生の「浅見光彦」シリーズの歳をとならい人々はまるで「サザエさん」のそれを見るかのようである。

畠中恵さんは「しゃばけ」シリーズですでに揺らぎ無き世界観を確立されていて、もうこのままエピソードを安定的に生産してゆけばいいと思ってらっしゃるのかもしれない。病気がちで寝っぱなしという大店の若だんな(長崎屋の一太郎)が主人公なのだから、一進一退の病状とともに物語が急展開するんだろうかと思うと、長い目で見た変化は全くといっていいほど無い。これはやはり、意図された安定志向と見るべきだろう。

しゃばけシリーズ (出典ウィキペディア「しゃばけ」)

  1. しゃばけ – 長編小説 / 新潮社(2001年)
  2. ぬしさまへ – 短編小説集 / 新潮社(2003年)
  3. ねこのばば – 短編小説集 / 新潮社(2004年)
  4. おまけのこ – 短編小説集 / 新潮社(2005年)
  5. うそうそ – 長編小説 / 新潮社(2006年)
  6. ちんぷんかん – 短編小説集 / 新潮社(2007年)
  7. いっちばん – 短編小説集 / 新潮社(2008年)
  8. ころころろ – 短編小説集 / 新潮社(2009年)
  9. ゆんでめて – 短編小説集 / 新潮社(2010年)
  10. やなりいなり – 短編小説集 / 新潮社(2011年)

番外編
  みぃつけた – 絵本 / 新潮社(2006年)
関連図書
  しゃばけ読本 – ファンブック。バーチャル長崎屋奉公人編

前作「ゆんでめて」まではよかった。何とか最後まで興味が途切れなかった。しゃばけシリーズの記念すべき第10巻となるはず(だよな?)の本作「やなりいなり」は危なかった。目先を変えてということか、レシピのようなものが各挿話冒頭に付くのは、角川文庫の人気シリーズ「みをつくし料理帖」の路線を狙うのかと誤解もしてしまった。danchuを読む私でも、このレシピは斜めに読んでしまった、著者さん御免なさい。

では、本作「やなりいなり」は読む価値に疑問をもったか。いえいえ、最後まで読んで御覧なさい。最後できっちり全部の挿話が繋がり、いつもながらのホロリとさせる結末。読んで損はございません。途中で投げ出した方は大損でございます。

夏の夜はやっぱりホラーだ

平塚市図書館中央館も伝統と歴史を感じさせる、というか正直なところ中途半端に古めかしい、なんて言っては身も蓋もないのだが、使われてない開かずの会議室なんてのがあっても不思議ではないような雰囲気もあって、ホラーの舞台に結構いけるんじゃないかと、無責任で失礼な枕を置いて、さて本題です。

いい歳をしてゴーストハントなんて読んでてよろしいのか、この疑問はとりあえず横においておきます。なにしろ、面白いんだもの。ミドルティーンのボーイズアンドガールズが主役で、それも回顧ものじゃなくてリアルタイムで少年A少女Bが大活躍とあっては、こりゃ未成年向け学校図書御用達の類と腰が引けるのはまあ仕方がない。

強いて言えば、著者の小野不由美さんがはや50歳ということで、立派な大人であることが救いか。ご主人は綾辻行人氏とのことで、やっぱり夏の夜はホラーつながりの話で盛り上がるんかいねと余計なお世話の下世話な興味が不躾にもむくむくと湧いてくる。

さて、ゴーストハントの新装刊も第5巻『鮮血の迷宮』まで来た。アマゾンの書評を見ていると、この巻が一番好き、みたいな方もいらっしゃる。確かにここまで、右肩上がりに充実してきました感がある。登場人物のタカが、ええっと誰だったっけと、ウィキを覘いたのが失敗だった。予告なくしっかりネタバレしている。あちゃー、ナルって、その人ご本人だったのね、と。今はとりあえず知らないでおいて後続の巻でびっくりさせてもらったほうがよかったよ。ビールの前に麦茶を飲んでしまった感じ、とでも言っておきましょう。

ゴーストハントの世界観には迷いが無い。霊は、いる。が、特定の宗教に依拠しない。あらゆる宗派のマントラがそれなりに効果を示す。唯一絶対の存在に逃げない、頼らない。八百万のすべてをあるがままにリスペクトする揺らぎ無き姿勢が清々しい。

で、本作は、とうとうグローバルスタンダードへ、というか、あちらではホラーと言えばこれと相場が決まって定番化しているが、日本ではそれほどポピュラーではない。やはり、肉食を嫌う仏教の影響ということか。それにしても、最後の展開は圧巻。イマジネーションが刺激される。そして緊迫感。本当に恐い。逃げるが勝ちとはこういうことと描いて見せてくれた、見事な結末。

寝る前に読むと本当に眠れなくなってしまうので、ご用心。

密室、あるいは、鍵のかかった部屋

桃屋の『食べるラー油』下さい。

あーこれまだまだ希少品ですからねえ。

「僕」はこうして足元を見られ、売り手の言いなりとなり、『江戸むらさき』特級も『ごはんですよ』もついでに『花らっきよう』まで抱き合わせで買うはめになってしまって。

というところで目が覚めた。

ああ、そうだった。貴志祐介最新作は本格ミステリー、ということで、読み終わって枕元に放り出して寝たのだった。

表題作『鍵のかかった部屋』は確かに読ませる唸らせる。ポールオースターの高名なNY3部作最終作と同じタイトル、ググってはじめて知ったことだが、これは偶然の一致ではないだろう。確信犯的になんらかの効果を狙ってそうされたのだろうが、オマージュでもなさそうだし、ストーリー間に強い関係があることは、少なくとも表面上は感じられない。
いや、ポールオースター作を読んだわけではない。便利な時代になったもので、あらすじから読解のツボまでネットで探すことができる。

書評家の「僕」。失踪した幼馴染で親友だったファンショー。ファンショーの書いた小説を出版すべきか破棄するか、ファンショーの妻から判断をゆだねられる。出版してみるとベストセラーとなり、書評家としても成功してファンショーの妻と結婚する。その後、ファンショーから手紙がきて、結婚を祝福し、出版を感謝するという。「僕」はファンショーの伝記を書くという契約にサインした。素人探偵のようにファンショーの姿を探すうちに、アイデンティティが崩れ、泥沼にはまってゆく。

「僕」とファンショーの青春の記憶が「鍵のかかった部屋」で、それは蓋を開けると損なわれる宝物。かたや、物理的なる「密室」。とりあえず、謎解きして楽しめやと。トリックは面白かったが、即物的な密室をを心理的な「鍵のかかった部屋」と対比させるのは、読者の表面的な興味をそそる以上のいかなる効果があるのかなあと。

前衛的すぎるドタバタ劇や、妙にローテクな装置が活躍する仕掛けとか、密室をご都合主義的に作って強引に謎解きするかのようで、オモロサも中ぐらいなり、そう感じるのは私だけではないでしょう。

密室って、作家さんの挑戦意欲をそそるのでしょうか。エキセントリックな針が振り切れてしまったような強張ったような雰囲気は、貴志祐介さんらしい味付けですね。そう言ってしまってから、そりゃ毎度の誤読と、失笑まで買って帰って、江戸むらさき特級とともにやけ喰いする、そういう我が姿が目に浮かぶのでありますが。